依山楼岩崎の歴史|山陰 鳥取 三朝温泉 依山楼岩崎

依山楼岩崎の歴史

依山楼岩崎 外観

いつの時代も、変わらぬ心を伝えたい。

大正9年に創業した鳥取の老舗旅館依山楼岩崎。
「三朝温泉」の成り立ちや。ラジウム温泉の発見とともに歩んだ当館の歴史などをご紹介いたします。

  • 平安時代 三朝温泉の成り立ち

    三朝温泉の由来は、800年以上もも昔に遡ります。
    平安期の長寛二年(1164年)、源義朝の家来である大久保左馬之祐が、主家の再興祈願のために三徳山へ参詣しました。その道中、年老いた白い狼に出会い、弓で射ようとしますが、神仏の使いかもしれないと思いとどまり、逃がしてやりました。その夜、妙見大菩薩が佐馬之祐の夢に現れ、白狼を助けてくれたお礼に源泉のありかを教えてくれたそうです。そのお湯は病に効く救いのお湯として村人達に伝わり、今でも公衆浴場『株湯』として残されています。

  • 明治後期 明治後期

    1898年12月26日キュリー夫妻がラジウムを発見。
    日本でも、全国の鉱山や温泉で調査分析が始まりました。各地の温泉地が、次々とラジウム温泉に名乗りを上げることとなり、三朝温泉も効能の高い温泉地としてたいへんもてはやされることとなりました。

其の壱 大正時代の岩崎旅館(依山楼岩崎)

大正9年9月の当館の玄関の様子。
大正9年9月の当館の玄関の様子。

当時の屋号は「岩崎旅館」でした。
三朝町で沸き出るお湯のラジウム含有量が非常に豊富であることが知られ、「三朝温泉」の名前が全国に知れ渡ったのは大正時代のこと。

温泉地としての三朝の将来性に着目した故・岩崎吉太郎(初代社長)は、大正9年に三徳川の岸辺に岩崎旅館(現在の依山楼岩崎)を開業しました。

  • 当時の絵はがきセットのカバー
  • 庭園の様子
  • 当時の浴場
  • 【1】当時の絵はがきセットのカバー
    【2】庭園の様子
    【3】当時の浴場

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其の弐 岩崎で出会った二人の文豪

大正~昭和初期
世界屈指のラジウム温泉として全国に知られるようになった三朝温泉。
町は、遠方からくる湯治客で賑わっていました。
この頃当館に投宿いただいたのが、田山花袋、島崎藤村ら当時を代表する文豪。
昭和2年初出 島崎藤村著「山陰土産」この紀行文の一節に当時の様子が描写されています。

※「山陰土産 七:三朝(みさゝ)温泉」より

  • 島崎藤村直筆
  • 田山花袋直筆
  • 【1】島崎藤村直筆
    【2】田山花袋直筆

三朝川は前を流れてゐた。
私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。

~中略~
こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。
河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、田山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。
大正十二年この地に遊ぶとある。
さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。
~中略~
あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。
~後略~ 以上引用終わり

岩崎旅館(依山楼岩崎)を訪れていた田山花袋、投宿の折書き残した宿帳。
「大正十二年この地に遊ぶ」
花袋の名を見た藤村は自身の目の前に広がる三朝の風景と、
花袋が見たであろう景色の対比に思いを巡らせ、懐かしい友のこと思う。

写真左上:島崎藤村 ※写真右下:田山花袋

二人の文豪は直接出会ったのではありませんでした。

しかし、山陰の温泉宿で懐かしい友の文字との偶然の
出会いは山陰の旅をより豊かにするものだったのでしょう。

※写真左上:島崎藤村 ※写真右下:田山花袋

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其の参 岩崎で誕生した三朝小唄~野口雨情~

野口雨情の直筆「三朝小唄」
野口雨情の直筆「三朝小唄」

泣いて別れりゃ サイショ空までエー
ヨイトヨイトサノサ 曇る
曇りゃ三朝がよ ヤレ
三朝がよ 雨となるヨー
大瀬(おおぜ)ぼうきじゃ サイショ三朝がエー
ヨイトヨイトサノサ 見えぬ
三朝山陰(やまかげ)よ ヤレ
山陰よ 山の中ヨー

マキノプロダクション製作映画「三朝小唄」
マキノプロダクション製作映画「三朝小唄」

昭和二年八月二十日、三朝温泉を訪れた野口雨情、
岩崎旅館(依山楼岩崎)に着くやいなや、
旅装もとかず一杯のビールを傾けながら三朝小唄を即興的に作り上げたと伝わる。

雨情が作詞した三朝小唄は作曲家中山晋平が作曲し、
振付け師島田豊が踊りの振り付けを担当し完成。
昭和四年には三朝温泉を舞台に繰り広げられる無声映画「三朝小唄」がマキノプロダクションの制作により全国封切された。当時、当館の庭園や離れなどが舞台となりました。

野口 雨情
野口 雨情 (1882~1945)
大正~昭和にかけて民謡、童謡の普及に尽力。
代表作は「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」
「雨降りお月」「兎のダンス」」「しゃぼん玉」など多数。

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其の四 昭和初期のパンフレット~特等五圓~

昭和初期の当館のパンフレット、旅館の案内、周辺案内とともに宿泊料金の記載があります。

・宿泊料
特等 一等 二等 三等 四等
五圓以上 四圓 参圓五拾銭 参圓 弐圓五拾銭

昭和7年の貨幣価値について調べてみたところ

教員の初任給 15円
白米10キロ  2円
山手線初乗り  5銭 など

当時も温泉旅行は贅沢なものだったのですね。

  • 昭和初期の当館のパンフレット
    昭和初期の当館のパンフレット
  • 昭和初期の当館のパンフレット
    昭和初期の当館のパンフレット

さて、このパンフレット、おもしろい表が掲載されている。

・世界各温泉ラヂウム放射能表抜萃(内務省調査)
国名 位置 マッヘ単位
伊太利 イスキヤ 三七二.〇〇
日 本 鳥取縣三朝 一四二.一四
墺太利 カスタイン 一四〇.二〇
~中略~
独 逸 ウ#ースバーデン 一一.九五
  • 昭和初期の当館のパンフレット
    昭和初期の当館のパンフレット

マッヘは放射線量の単位らしい。
三朝温泉が世界随一のラジウム温泉としてPRしているこの表。
温泉の調査を内務省がしていることが面白い。

また、比較として登場する国名が、日・独・伊等の枢軸国のみといったところも世情を感じさせらせる。 (後のパンフレットではフランスやアメリカも登場する)

パンフレット

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其の伍 三朝大橋の完成を祝う~昭和九年~

昭和九年、三朝大橋の完成を祝う町民の様子
昭和九年、三朝大橋の完成を祝う町民の様子

和装にカンカン帽の男性、日の丸の小旗を持ち整列する小学生、小さい子を抱え遠巻きに見る女性の姿。昭和初期の写真です。

三朝橋は三徳川(三朝川)に架かる橋、昭和9年に作られた青御影石造りの風流あふれる橋です。

近代日本を代表する建築家の一人、武田五一の設計。

橋上には擬宝珠高欄,
春日燈籠を設けるなど
木橋を意識したデザイン。
登録有形文化財として登録されている。

現在は三朝大橋の名で親しまれ、三朝温泉のシンボル的な存在です。
この橋のたもとには三朝温泉名物の「河原温泉」があります。

温泉街を流れる三徳川は美しく澄んだ清流。
三朝大橋の周辺、初夏にはカジカ蛙の透き通った声やホタル鑑賞が楽しめる。

  • 春日燈籠
  • 河原温泉
  • 清流 三徳川
  • 【1】春日燈籠
    【2】河原温泉
    【3】清流 三徳川

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其の六 与謝野鉄幹・晶子~対の掛け軸

鉄幹、晶子の詠んだ歌

昭和初期に夫婦そろって岩崎に投宿。
鉄幹、晶子の詠んだ歌、 同じ装丁の掛け軸が残っています。

向かって右が晶子の歌
水と灯の 作る夜色の めでたさを見んは都と 渓あいの湯場
一方、左が鉄幹(寛)の歌
三朝湯の ゆたかなるかな こころさへこの新しく 湧くよ学ばん

昭和五年六月、日本を去る歌、春思・巴里より等を残した与謝野鉄幹、夫人晶子とともに投宿。
こんこんと湧きいでる三朝の湯につかれを流した。

与謝野 鉄幹 (1873~1935)
与謝野 鉄幹 (1873~1935)
詩人、歌人。京都生まれ。本名、寛
落合直文の門に入り、浅香社に参加、短歌革新運動を興した。
のち新詩社を創立し「明星」を創刊、主宰。
妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開き新人を多く育成。
歌論「亡国の音」、詩歌集「東西南北」「紫」、訳詩集「リラの花」など。
与謝野 晶子 (1878~1942)
与謝野 晶子 (1878~1942)
歌人。堺の生まれ。旧姓鳳。鉄幹の妻。
新詩社を代表する歌人として雑誌「明星」で活躍。
歌集「みだれ髪」「小扇」「舞姫」現代後訳「新訳源氏物語」など。

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其の七 したしきはうす紅の合歓の花~斉藤茂吉~

昭和二十五年頃、当館の庭園で撮影された写真。後列左から二人目が斉藤茂吉、当時の女将と従業員との一枚。
昭和二十五年頃、当館の庭園で撮影された写真。後列左から二人目が斉藤茂吉、当時の女将と従業員との一枚。

したしきは うす紅の 合歓の花 むらがり匂ふ 旅のやどりに 斉藤茂吉

当時、庭園にあった合歓(ねむ)の木を詠んだ歌。

合歓は山地や川岸などに生え、初夏に枝先に花をつける。
今も三朝の近く波関峠周辺でも多く見られる。

この歌の直筆ほか、女将宛に届いた茂吉からの葉書は
今も大切に保管されている。

斉藤 茂吉 (1882~1953)
歌人・医師。山形の生まれ
伊藤左千夫に師事、歌誌「アララギ」同人、
歌集「赤光」によりアララギ派の代表的歌人となる。
実相観入による写生説を唱えた。
  • 対局で使用された碁盤
  • 「流水」本因坊薫和(岩本薫)
  • 【1】合歓(ねむ)の木
    【2】斉藤茂吉 直筆

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其の八 昭和26年、第6期本因坊戦~3人の本因坊~

昭和二六年 橋本昭宇、坂田栄男の対局
昭和二六年 橋本昭宇、坂田栄男の対局

この年第6期本因坊戦が岩崎旅館(依山楼岩崎)で開催された。

勝負は4勝3敗、橋本が本因坊のタイトルを衛る。この年敗れた坂田はのちに本因坊戦を7連覇することとなる。

対局で使用された碁盤は今も当館にのこっている。

この碁盤、裏に岩本薫(本因坊薫和)の直筆のサインがあり、初期の本因坊3人が関わっているのが興味深い。

ところで、最上段の対局の様子写真中央の黒っぽい着物の女性は当時の館主、岩崎あい。

今の本因坊戦、いやタイトル戦では到底考えられないことだが、身を乗りださんばかりに対局を間近で見つめている様子だ。

対局中なのかそういう体裁で撮影をお願いしたのか、今となってはわからないが見る人を驚かせる写真です。

  • 対局で使用された碁盤
  • 「流水」本因坊薫和(岩本薫)
  • 「保福」本因坊栄寿(坂田栄男)
  • 「清尚」本因坊昭宇(橋本宇太郎)
  • 【1】対局で使用された碁盤
    【2】「流水」本因坊薫和(岩本薫)
    【3】「保福」本因坊栄寿(坂田栄男)
    【4】「清尚」本因坊昭宇(橋本宇太郎)

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其の九 昭和天皇全国御巡幸~離れ三朝閣~

離れ三朝閣(さんちょうかく)から眺める紅葉(11月末頃)
離れ三朝閣(さんちょうかく)から眺める紅葉(11月末頃)

戦前、国民にとって天皇陛下は雲の上の存在でありました。大部分の国民は、天皇陛下の御姿を拝するどころか肉声も聞くこともまれであった時代でありました。

昭和二十一年より始まった、昭和天皇の全国御巡幸。
戦前ではありえないシチュエーションでの陛下との面会、また天皇陛下から激励のお声掛けを受けた多くの人々は復興への意志をあらためて強くしたと聞いております。

鳥取県への行幸は昭和22年の11月私ども依山楼岩崎が御宿泊の用命を賜ることとなり、離れ三朝閣(さんちょうかく)が御座所となりました。

その後、昭和40年に昭和天皇皇后両陛下の行幸啓を、
昭和60年には昭和天皇、常陸宮御夫妻、三笠宮宜仁様、
高円宮様のご宿泊を賜りました。

最初にご利用いただいた離れ三朝閣にこんなエピソードがあります。二度目の御宿泊となった昭和40年は館内の特別室(現601号室)にお泊まりいただきました。
その折り、昔の部屋が懐かしいし、皇后陛下にも是非見せたい〜と仰せになり、急遽予定にないコースをお運び頂いたとのこと。

さらに戦後の御巡幸のこと、三朝閣のことを懐かしんで御製を残されました。

たたかひの はててひまなき そのかみの 旅をししのぶ この室をみて 〜戦争が終わってすぐにした旅のことがこの部屋(当時三朝閣)を見ていると懐かしく思い出される〜

当時の入江相政侍従長に書をしたためていただいたものを額にし、大切に保管しています。

離れ三朝閣は記念の室として現存。
宿泊室としては使用していませんが、当時の調度品、記念の写真などを展示しご来館のお客様にご覧いただいています。

  • 両陛下のご到着を迎える従業員一同
  • 昭和40年5月12日 天皇皇后両陛下(庭園にて)
  • 【1】両陛下のご到着を迎える従業員一同
    【2】昭和40年5月12日 天皇皇后両陛下(庭園にて)
  • たたかひの はててひまなき そのかみの 旅をししのぶ この室をみて 〜戦争が終わってすぐにした旅のことがこの部屋(当時三朝閣)を見ていると懐かしく思い出される〜
  • 三朝閣

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