朝から雲ひとつない晴天なので半袖の制服で出勤したのですが...
風が冷たい!
いくら天気が良くても屋内で半袖でいるとそれなりに寒いです・・・
でも、7月・8月もこのような天気ならうれしいですね。

さて、昨日の帰宅直前に上司からプランに関して指示を受けました。
上司:「90周年記念プランだけど8月迄延長決定ね。」
私:「なんですと?6月末までって言われたじゃないですか?」
上司:「言ったけど、今延長を決めた。だって好評だもん」
私:「好評なのは分かりますが...いつまでに延長しとけばいいですか?」
上司:「明日」(即答)
私:「早っ!いろいろ仕事を溜めてるのでもう少し猶予を・・・」
上司:「却下。両方がんばれ」
あ、あなたは鬼ですか?
まぁ、なんとか今日中には延長しますけど...
ということで、『創業90周年記念特別プラン』を8月末日まで延長致します。
実際にはまだ延長してませんが、本日(6/15)の16:00までには延長しておきます。
がんばります!
皆様も、ぜひ、『創業90周年記念特別プラン』をご利用くださいませ。
プラン予約はこちら ⇒ 【創業90周年記念特別プラン】
離れ三朝閣(さんちょうかく)から眺める紅葉(11月末頃)
戦前、国民にとって天皇陛下は雲の上の存在でありました。
大部分の国民は、天皇陛下の御姿を拝するどころか
肉声も聞くこともまれであった時代でありました。
昭和二十一年より始まった、昭和天皇の全国御巡幸。
戦前ではありえないシチュエーションでの陛下との面会、
また天皇陛下から激励のお声掛けを受けた多くの人々は
復興への意志をあらためて強くしたと聞いております。
鳥取県への行幸は昭和22年の11月
私ども依山楼岩崎が御宿泊の用命を賜ることとなり、
離れ三朝閣(さんちょうかく)が御座所となりました。
その後、昭和40年に昭和天皇皇后両陛下の行幸啓を、
昭和60年には昭和天皇、常陸宮御夫妻、三笠宮宜仁様、
高円宮様のご宿泊を賜りました。
最初にご利用いただいた離れ三朝閣にこんなエピソードがあります。
二度目の御宿泊となった昭和40年は館内の特別室(現601号室)に
お泊まりいただきました。
その折り、昔の部屋が懐かしいし皇后陛下にも見せたいので
ぜひ見たいと急に仰せになり、わざわざ予定にないコースを
お運びいただいとのこと。

さらに戦後の御巡幸のこと、
三朝閣のことを懐かしんで御製を残されました。
たたかひの はててひまなき そのかみの
旅をししのぶ この室をみて
~戦争が終わってすぐにした旅のことが
この部屋(当館三朝閣)を見ていると
懐かしく思い出される~
当時の入江相政侍従長に書をしたためていただいたものを額にし、大切に保管しています。
離れ三朝閣は記念の室として現存。
宿泊室としては使用していませんが、
当時の調度品、記念の写真などを展示し
ご来館のお客様にご覧いただいています。
【創業90周年】最終回につづく
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了
昭和40年5月12日 天皇皇后両陛下(庭園にて)
両陛下のご到着を迎える従業員一同

昭和二六年 橋本昭宇、坂田栄男の対局
この年第6期本因坊戦が岩崎旅館(依山楼岩崎)で開催された。
勝負は4勝3敗、橋本が本因坊のタイトルを衛る。
この年敗れた坂田はのちに本因坊戦を7連覇することとなる。
対局で使用された碁盤は今も当館にのこっている。
この碁盤、裏に岩本薫(本因坊薫和)の直筆のサインがあり、
初期の本因坊3人が関わっているのが興味深い。

ところで、
最上段の対局の様子
写真中央の黒っぽい着物の女性は当時の館主、岩崎あい。
今の本因坊戦、いやタイトル戦では到底考えられないことだが、
身を乗りださんばかりに対局を間近で見つめている様子だ。
対局中なのかそういう体裁で撮影をお願いしたのか、
今となってはわからないが見る人を驚かせる写真です。
現在、依山楼岩崎1階の「ぎゃらりぃ岩崎」にて
橋本昭宇(本因坊昭宇)、坂田栄男(本因坊栄寿)の色紙
対局で使用された碁盤、記念の写真を展示しています。
【創業90周年】その8につづく
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了
「流水」本因坊薫和(岩本薫)
「保福」本因坊栄寿(坂田栄男)
「清尚」本因坊昭宇(橋本宇太郎)
※「ぎゃらりぃ岩崎」展示は不定期入れ替えですご容赦下さい。

昭和二十五年頃、当館の庭園で撮影された写真です。
後列左から二人目が斉藤茂吉、当時の女将と従業員との一枚。

したしきは うす紅の 合歓の花
むらがり匂ふ 旅のやどりに
斉藤茂吉
当時、庭園にあった合歓の木を詠んだ歌。
合歓は山地や川岸などに生え、初夏に枝先に花をつける。
今も三朝の近く波関峠周辺でも多く見られる。
この歌の直筆ほか、女将宛に届いた茂吉からの葉書は
今も大切に保管されている。
斉藤 茂吉直筆
斉藤 茂吉(一八八二~一九五三)
歌人・医師。山形の生まれ
伊藤左千夫に師事、歌誌「アララギ」同人、
歌集「赤光」によりアララギ派の代表的歌人となる。
実相観入による写生説を唱えた。
【創業90周年】その8につづく
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了

昭和九年、三朝大橋の完成を祝う町民の様子。
和装にカンカン帽の男性、日の丸の小旗を持ち整列する小学生、
小さい子を抱え遠巻きに見る女性の姿。昭和初期の写真です。
三朝橋は三徳川(三朝川)に架かる橋、
昭和9年に作られた青御影石造りの風流あふれる橋です。

近代日本を代表する建築家の一人、
武田五一の設計。
橋上には擬宝珠高欄,
春日燈籠を設けるなど
木橋を意識したデザイン。
登録有形文化財として登録されている。
現在は三朝大橋の名で親しまれ、三朝温泉のシンボル的な存在です。
この橋のたもとには三朝温泉名物の「河原温泉」があります。
温泉街を流れる三徳川は美しく澄んだ清流。
三朝大橋の周辺、初夏にはカジカ蛙の透き通った声やホタル鑑賞が楽しめる。
【創業90周年】その6につづく
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了

昭和20年頃の三朝大橋、奥に当時の依山楼岩崎岩崎

昭和初期の当館のパンフレット、
旅館の案内、周辺案内とともに宿泊料金の記載があります。
<宿泊料>
特等 五 圓 以上
一等 四 圓
二等 参 圓五拾銭
三等 参 圓
四等 弐 圓五拾銭
昭和7年の貨幣価値について調べてみたところ
教員の初任給 15円
白米10キロ 2円
山手線初乗り 5銭 など
当時も温泉旅行は贅沢なものだったのですね。
さて
このパンフレット、おもしろい表が掲載されている。

世界各温泉ラヂウム放射能表抜萃(内務省調査)
国 名 位 置 マッヘ単位
伊太利 イスキヤ 三七二.〇〇
日 本 鳥取縣三朝 一四二.一四
墺太利 カスタイン 一四〇.二〇
・
・
中 略
・
・
独 逸 ウ#ースバーデン 一一.九五
マッヘは放射線量の単位らしい。
三朝温泉が世界随一のラジウム温泉としてPRしているこの表。
温泉の調査を内務省がしていることが面白い。
また、比較として登場する国名が、日・独・伊等の
枢軸国のみといったところも世情を感じさせらせる。
(後のパンフレットではフランスやアメリカも登場する)

昭和初期のパンフレット:表紙
【創業90周年】その5につづく
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了
昭和20年代後半のパンフレット:表紙
昭和20年代後半のパンフレット:中面
昭和20年代後半のパンフレット:国鉄案内
昭和20年代後半のパンフレット:電話番号

画像は野口雨情の直筆「三朝小唄」
「三朝小唄」
野口雨情作詞・中山普平作曲(昭和4年)
泣いて別れりゃ サイショ空までエー
ヨイトヨイトサノサ 曇る
曇りゃ三朝がよ ヤレ
三朝がよ 雨となるヨー
大瀬(おおぜ)ぼうきじゃ サイショ三朝がエー
ヨイトヨイトサノサ 見えぬ
三朝山陰(やまかげ)よ ヤレ
山陰よ 山の中ヨー
昭和二年八月二十日、三朝温泉を訪れた野口雨情、
岩崎旅館(依山楼岩崎)に着くやいなや、
旅装もとかず一杯のビールを傾けながら三朝小唄を即興的に作り上げたと伝わる。
雨情が作詞した三朝小唄は作曲家中山晋平が作曲し、
振付け師島田豊が踊りの振り付けを担当し完成。
昭和四年には三朝温泉を舞台に繰り広げられる無声映画「三朝小唄」が
マキノプロダクションの制作により全国封切された。
当時、当館の庭園や離れなどが舞台となりました。

野口雨情(1882~1945)
大正~昭和にかけて民謡、童謡の普及に尽力。
代表作は「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」
「雨降りお月」「兎のダンス」」「しゃぼん玉」など多数。
【創業90周年】その4につづく
マキノプロダクション製作映画「三朝小唄」
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了
大正~昭和初期
世界屈指のラジウム温泉として
全国に知られるようになった三朝温泉。
町は、遠方からくる湯治客で賑わっていました。
この頃当館に投宿いただいたのが、
田山花袋、島崎藤村ら当時を代表する文豪。
昭和2年初出 島崎藤村著「山陰土産」
この紀行文の一節に当時の様子が描写されています。
「山陰土産 七:三朝(みさゝ)温泉」より
三朝川は前を流れてゐた。
私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、
宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、
しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。
~中略~
こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。
河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、
田山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。
大正十二年この地に遊ぶとある。
さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。
~中略~
あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。
~後略~ 以上引用終わり
岩崎旅館(依山楼岩崎)を訪れていた田山花袋、投宿の折書き残した宿帳。
「大正十二年この地に遊ぶ」
花袋の名を見た藤村は自身の目の前に広がる三朝の風景と、
花袋が見たであろう景色の対比に思いを巡らせ、懐かしい友のこと思う。

田山花袋と島崎藤村
二人の文豪は直接出会ったのではありませんでした。
しかし、山陰の温泉宿で懐かしい友の文字との偶然の
出会いは山陰の旅をより豊かにするものだったのでしょう。
※写真右上:島崎藤村 ※写真左下:田山花袋
【創業90周年】その3につづく
島崎藤村直筆
田山花袋直筆
【創業90周年】記念宿泊プランを見る終了